Y先生は先日の女子居合大会で久々に演武されたそうだ。
『私が一番やりたいことはコレなんだなあとあらためて自覚したのよ』そうおっしゃっていた。
素敵だなと感じ入る。
自分はどうなのだろう。
ふと自問してしまう。
これまでも自分が一番やりたがってる、もしくはやると言い張ってきたことは今でも一貫して変わっていない。
でも、着手もできないでいるうちに興味の対象が変わり続け、いったいなにがしたかったのかもピントがぼやけているのが現状かもしれない。
仕事はやりがいも感じているが、クオリティ的には自分ならではの作業をしっかり遂行できているのか常に自問する日々。
中心とすべき軸はふらふらゆれていて、本来の力が発揮できないでいるという設定の幻想の中でどうやら自分は生きている。
家族にもその幻想をつきあわせているのではないか。
おちいりがちな過ち、偶然でも自分の資質により乗り切れた幸運などを洗い出してから今後の展望を考えてみる。
辿り着いたこの場所でまずは懸命に生きてみる。
不平不満を並べたてることで心をすり減らすことなく、現状で最善を尽くすことを常に実行する。
自分の小さな了見でピントをぼかしてしまうのでなく、今をしっかり生きることで自分を切り開いていく。
自分の中の放置してた荒れ地を開拓していく。
そしてベストな種をまいてベストな花を咲かす努力を怠らない。
与えられている環境の中でベストを尽くすということ。
毎度のことで当たり前なのだが、自問も結局そこにたどり着く。
まいチョンボらいふ
新弟子Oさんといっしょに朝稽古中、見本を見せるつもりが刀礼がすっぽぬけて固まってしまい、あれっ? てなる。
別にイイところを見せようと思ってたわけでもないのだが、身体に染み込ませたはずの動作が誤作動する感覚を味わう。
先日も仕事を終えて階下へ降りようとして、学校のエレベーターのボタンを押すはずが、車のキーについてるドアオープンスイッチを何度も押していた。
アナログ技法で絵を描いている時の失敗を、PCソフトで描いてる時のように、アンドウーしようとする感覚に似てるかな。
気分的にかなりずっこけた。
なんてチョンボだろ!
アル中ハイマーか自分は。
かなり恥ずかしいが、まだ自分で自分を笑えるレベルかな。
ココロの栄養になるような、よい印象でも摂取しに…
ひさびさに景色のいいところへ出かけたいものです。
まずはおいしいものでも食べて多めに休みをとろうと思います。
今朝の稽古で
Y師匠のおハナシから。
上達のプロセスにおいては修業の進み具合によって「その段階でなら今はまだそれで良し」ということがある。
が、まだまだ先があるということを忘れてはいけない。
その段階の割には良くできているという意味での『良し』なのだ。
それを、『良し』といってもらったからといって、自分はできるようになったと勘違いしてはいけない。
前に指導していただいたところを一週間稽古してできるようになって次の稽古に臨んだ時に、師匠が良しと言われた。そしてこんどはこうしてみろと言われた。
前回と別のことを言うと。次にはまた別のことを言われると。
それで不満が噴出し、毎回違うことを言われるので混乱すると文句を言うのは筋違いであって修業が進んだ頃合いを見て次の段階の修練がまた始まるということの繰り返しがあるのだということを理解すること。
それが分からない人は一度良しといわれただけでできるようになったと天狗になったり、毎回違うことを言われることで混乱し辞めてしまうこともあるのだという。
修業の進み具合で語られる『守・破・離』のハナシと絡めると…
師に付いて基礎をまずしっかりならうのが『守』の段階。
他の流派や達人の技を研究し自分の技に取り入れるようになるのが『破』の段階。
そしてやがては師を離れ自分のオリジナルの居合を創りあげるのが『離』の段階。
これは画業にもあてはまる。
基礎修練はもっとも大切なこと。
習得した基礎は崩さずにその上に表現を積み上げ切磋琢磨していく。
それがやがては自分だけの表現に結実していく。
そして天狗になるプロセスも、混乱したあげくに自滅していくプロセスも画業においてもよくあることなのだ。
師に付くということは伝授していただけることに感謝し、現状のありのままの自分を委ね無心(我欲無し)で信じて付いていく。(心酔することも大事)
いちいち疑問をはさんだり自分の狭い了見で師の言動を一刀両断にしていては学べるものも学べず仕舞いに成ってしまうということ。
へなちょこがいっちょまえ気分になってしまうという意味で天狗になったり、自滅したりで付け焼き刃な状態がいちばん不安定で危ないのだということなのだろう。
修業の道程にはそういう段階があるのだと理解できる。
お別れ会のBBQ
Dさんが故郷の米国に家族と共に帰ることになった。
お別れ会のBBQに参加してきました。
DさんはiPhoneで撮ったドラゴンヘッドの画像をアップにして見せてくれました。
僕の作ったドラゴンヘッドをとっても気に入ってくれたみたいで、そのリアクションがとても嬉しかった。
Dさんとはもう会えなくなるわけじゃないけど、仲間との別れはやはりさびしいものです。
たぶん向こうではひとりで居合を稽古することになるだろうって明るくおどけて語るDさんでした。
昇段審査にはまた来日して、ごいっしょできることと信じて僕も稽古に精進しながらその日を楽しみに待つことにします。。
刀は正直
ひさしぶりに兄弟子のK氏と朝稽古でごいっしょする。
自分よりも修業の進んだ方と稽古すると本当に勉強になる。
五本目「袈裟切り」で切り上げた後、柄を返して切り下ろす手の内の指導をしていただいている時にY先生が仰った言葉が印象に残る。
「ぎゅっと柄を握ったまんまだからちゃんと刀が返らないんです。
もっと手の中で遊ばせなさい。」
「刀に振り回されてちゃだめ。ちゃんと遣ってあげればできるの。自分が刀を遣わなければならないんです。脳から指示を出す通りに遣ればいいの!」
『刀って正直なんですよ!』
はい!先生。。
このお言葉…本日の師匠の名言としてブログに書くようにK氏に申し付けられ候。ゆえにココに記しますル。
本日も実りの有る稽古をさせていただけたことに感謝いたします。
本日の稽古
今日の朝稽古では基礎稽古で切り下しと足さばきのまずさをチェックしていただきました。
小指にチカラを入れれば振りかぶった時に切っ先が後方にさがりすぎない。
もっと肩の力を抜き肚に意識を置きながら振りかぶりと切り下しのタイミングを同じにするように意識すること。
着地している足を踏ん張るようにして力をいれるのではなく太腿の内がわをひきしめるようにするとヘソも前を向き下半身も安定する。
制定の通し稽古では九本目を重点的に見ていただく。
まだまだ下半身が弱いと自分でも自覚できる。
対面稽古
稽古熱心な新人のOさんが入門されて、最近では朝稽古でいっしょになることが多い。
この方は役者をされていて、演技に役立つよう殺陣のセンスも磨きたいということで居合を習いはじめられたらしい。
自分より歳はひとつかふたつ上なのだそうだ。
Y先生が「最初に会った時の印象があなたと似てたのよ♪」そう仰ってましたが、でも僕よりずっと若作りなのだ。
さすがは役者である。
Y先生が僕ら二人を向かい合わせ、僕の演武がOさんの刀を抜くタイミングや間合いなどの見本になるように、同時に同じ技を稽古させる。
「ホントに相手を斬る気魄で刀を抜きなさい。」Y先生のお言葉。
『はい!じゃあ殺すつもりでいきます!!』って、おいおい… 滝汗
目つきもするどく変わり、前つんのめりぎみではありましたが、気の入った抜きつけに正面に対座する自分は思わずのけぞってしまう。
ムムム…さすがは役者である。
『教えることは学ばせていただくこと。学びあいなのよ♪』
Y先生の深イイお言葉。
お互いによく学びあえるよう今後も稽古に精進する所存です。
第48回東京都居合道大会に出場
桜も散り4月も半ばを過ぎたというのに雪が積もった日でした。
近頃の大会では勝ち負けにこだわる良くない傾向がある。
居合とはそういうものではないのですよと大会開始あいさつのお言葉にもありました。
でも、負けました。…いいえ、自分の未熟さに負けました。
そして、大会では良い結果は出せませんでしたが、良い学びを多々得ることができました。
大会用の晴れ着仕様の居合道着とふだんの稽古では着用しないお気に入りの特製の帯での大会出場でしたが、帯に刀を差すが鞘さばきが固くてすんなりできないのが気になっていました。
初っぱなの袴捌きでも普段通りにいかず、最初の技の出だしから袴に足がひっかかってよろけそうになりました。
納刀時の鞘引きでも普段通りに鯉口に刀の切っ先を寄せることができず演武にも焦りが出てしまったのだと、思う。
その後はふだんの稽古通りに体に染み込んだ動作を再現できるよう、気を入れて演武できるように集中しました。
ちゃんと直前の稽古は大会用の着装ですべきだなと反省しました。
言い訳はこれくらいにしておきます。
気剣体一致のみだれは審査員の先生方に瞬時に察知されます。
善くも悪くも普段の稽古が出る、あらゆる事態を想定しベストな状態をめざして用意周到にそなえる、今回の大会ではそうことがとても大事だといっそう自確することができました。
もっと稽古に励もうというモチベーションも高まりました。
同門の兄弟弟子の中では三段のI氏と二段のK氏が敢闘賞を受賞されました。
おめでとうございます。
帰途中、ひょんなこと(高速道の車線変更まちがい・笑)から運転して下さったI氏のお計らいということで、人でごったがえした休日の渋谷や代々木競技場のまわりを周遊できるというサプライズな観光も楽しませていただきました。
同乗されていたY師匠やアメリカ人のDさんも休日の渋谷の人の多さに驚いていました。
おかげさまでちょうど良く予約されていた時間に居酒屋に到着できました。
あえて内容は語りませんが、大会後の打ち上げは盛り上りました。
師匠と兄弟弟子みんなで、居酒屋の貸し切りの座敷で、とにかく大笑いしました。
こんな素敵な師と兄弟弟子の方々とごいっしょできることが本当に嬉しく感謝の気持ちでいっぱいです。
自分の詰めの甘さが露呈し学びも多かった大会でした。
このままでは終わりません。
重々分かっていても、それをそのまま放っておくのは自分の弱さ。
克服すべき点が見えているのなら改善するのが前向きなやりかたというもの。
キャパを超えたことをすれば確かに自分に跳ね返ってきますが、ちょうどいい加減を知り、その負荷も自分の耐性を高めるものと自覚できるなら、頑張るべきだと。
『頑張る』という言葉は最近はデリケートにあつかわれる言葉のようですが、あえて言ってみたい言葉です。
自分に負荷をかけて頑張ってみようと静かに思えました。
もっと自分の弱さと向き合って克服の努力につなげられる稽古にしよう。
稽古でのチェックポイント
本当に有り難いことです、このようにご指導いただけることを心から感謝します。
基礎の大切さ、着眼点を持って稽古することの大切さ、そして…
初発刀をのぞく古流の稽古封印を言い渡されたのも、まずは自分にやりやすいようにつけてしまった、変なクセを今のうちに直してからということの意味を思い知りました。
大会前に迷いのあるまま闇雲に稽古をするよりも、冷静にムービーで自分のクセを確認し、自分のウイークポイントの研究ができてよかった。
◇今後の稽古で修正すべきチェックポイント
◯あらためてムービーを見て演武の間の悪さに気付く。
・水の流れのようなよどみない一連の動作となるよう技を磨く。
・各技の理合にかなった無駄の無い間のとり方を身につける。
◯肩の力を抜く、そして前屈み気味なのでとにかく意識してムネを開くこと!
・肚(丹田)に意識を置き、腹をひっこめながらみぞおちからつりあげるようにしてムネを開く。
・クセになっているので右肩をさげるよう、体の中心も右寄りになるよう意識して調整する。
◯頭のてっぺんから首、背骨にそって一本筋が通ったように重心がしっかりした動作をこころがける。
・どんな状態でもぐらつかない、どっしりした腰の据わった動作。
◯もっと腰を低く居合腰になる。
・前に出る時はもちろん、後ろに下がる時も重心をくずさないように足を引き、ゆっくりひいた足が着地したところに重心を移していく。
頭の位置もふらふら動かない、ネコのしぐさような優雅な体重移動をめざす。
◯切り下ろす時、常にもっと頭上に大きめに振りかぶるよう意識する。
・せっかくの技が小さくなってしまってはもったいない。
・頭上で刀を止めないで流れるように、ん~、ん!の呼吸で切り下ろす。この時、柄を頭上で握り直さない。はじめから小指がしっかり決まる位置で握ること。
・箒で天井をはくように切っ先を放り出すようなつもりで振りおろす。
◯ガサツな演武をしない。現時点での自分にできる最良の間合いの居合となるように仕上げ、大会に臨むこと。
・袈裟切りなどの切り上げ切り下ろし時の技の返しはシャープでスピーディにおこなうこと。
・納刀前、いち・にー・さん!と、間をおく。
・鯉口に刀の切っ先を誘い込むまでは素早く、納刀時には残心をしめしながらゆっくり鞘に刀をおさめていく。
・いつでもまた刀が抜けるスキの無さでゆっくり納刀する。
・キレのある素早さと抜け目の無いゆっくりした動作で、メリハリをつけながらも、演武中の流れの糸を途切れさせないように集中を持続させること。
◇大会用メニュー(自分のチェックポイント)
1.初発刀(古流)
着座も古流なのか、確認すること。
鞘引きしながらヘソ前から刀を抜きつける。
大血振りは「ん~ん、んっ!」と、とぎれなくおこなう。
モモの内がわに力を入れて突っ張らせるように立ち上がる。
いつも肚に意識をおき、切っ先に責めの力を込めて演武する。
2.柄当て(四本目)
柄をつかむと同時にみぞおち辺りから体をつりあげるようにして膝を立てる。
柄当ては体の中心から突くこと。
横血振りは水平に。
納当時の足ひきも早すぎるので意識してゆっくり残心を示す。
3.袈裟切り(五本目)
切り返しスピーディーに。袈裟に切る位置を正確に意識すること。
後退しながらの血振りを正確におこなうこと。
4.諸手突き(六本目)
後ろ前の切り下し時の足さばき、重心の移動を正確に。
5.抜き打ち(十二本目)
胸から逃げる意識で抜き上げる。
抜いた刀は頭上で手の内をきかせ素早く次のカタチにすること。
敵の刀をかわし振り下ろした後に切り下ろせるように間をつくること。
これもメリハリが表現できるかがポイント。
——————————————-
生前のT師匠から言われて印象的だった言葉があります。
まだ居合修練をはじめて間もない自分がなにかのおりに、「まだはずかしいから人に演武を見せられない」と消極的な発言をしてしまい、こりゃ来るなあと思っ たら、やはり師匠に『はずかしいとはどういう了見だ!初段は初段なりの、弐段は弐段なりの居合をやれば良いのだ。うまく見せたいのは自分の我(が)だ!』と叱られ ました。
人前での演武も大切な修業、自分を磨く大事な修練なのでしょうね。
人の目が鏡となり自分の演武を客観的に知ることにもつながります。
大会ではへたはへたなりの…現時点での自分の居合をムネをはって演武する所存です。
剣禅話
山岡鉄舟 剣禅話を読む。
シンプルなのに骨太なメッセージがつまった本でした。
自分の器が計られる思いがした。
自分もそうそう同じパターンの過ち(うず)にばかり巻き込まれてもいられない。
講師業や居合の修練から得られる気付きも、けっきょくのところ、
なんのための修養なのだろうかとこの本を鏡に反省をさせていただいた。
因果に振り回されるばかりの凡愚を脱し、自分自身が辛苦して玉の汗にまみれてのち手に入れるべきものを手にする。
それは決して他から受け取るようなものではない。
迂闊なおめでたさをひたすらそぎ落とすような修養と修練を貫くことでしか達成できない境地であろう。
鉄舟師の体現したという己の内なる森羅万象を統治する『心の王』とシンクロするという表現に惹き付けられる。
『自分の内なる宇宙の王になることが自分を治めること』というような、強くてシンプルな表現力を見習いたい。
そのためにも自分に与えられている本分をしっかり自覚せよ。
これを妙道とし、尊信することで、大いに踏ん張って本業を極めるべし。
自分の中にこそ追い求めるべき道も光明もあるのだ。
そういう骨太なメッセージとして受け止めることができた。