まいチョンボらいふ

 
新弟子Oさんといっしょに朝稽古中、見本を見せるつもりが刀礼がすっぽぬけて固まってしまい、あれっ? てなる。
別にイイところを見せようと思ってたわけでもないのだが、身体に染み込ませたはずの動作が誤作動する感覚を味わう。
先日も仕事を終えて階下へ降りようとして、学校のエレベーターのボタンを押すはずが、車のキーについてるドアオープンスイッチを何度も押していた。
アナログ技法で絵を描いている時の失敗を、PCソフトで描いてる時のように、アンドウーしようとする感覚に似てるかな。
気分的にかなりずっこけた。
なんてチョンボだろ!
アル中ハイマーか自分は。
かなり恥ずかしいが、まだ自分で自分を笑えるレベルかな。
ココロの栄養になるような、よい印象でも摂取しに…
ひさびさに景色のいいところへ出かけたいものです。
まずはおいしいものでも食べて多めに休みをとろうと思います。
 
 

今朝の稽古で

 
Y師匠のおハナシから。
上達のプロセスにおいては修業の進み具合によって「その段階でなら今はまだそれで良し」ということがある。
が、まだまだ先があるということを忘れてはいけない。
その段階の割には良くできているという意味での『良し』なのだ。
それを、『良し』といってもらったからといって、自分はできるようになったと勘違いしてはいけない。
前に指導していただいたところを一週間稽古してできるようになって次の稽古に臨んだ時に、師匠が良しと言われた。そしてこんどはこうしてみろと言われた。
前回と別のことを言うと。次にはまた別のことを言われると。
それで不満が噴出し、毎回違うことを言われるので混乱すると文句を言うのは筋違いであって修業が進んだ頃合いを見て次の段階の修練がまた始まるということの繰り返しがあるのだということを理解すること。
それが分からない人は一度良しといわれただけでできるようになったと天狗になったり、毎回違うことを言われることで混乱し辞めてしまうこともあるのだという。
修業の進み具合で語られる『守・破・離』のハナシと絡めると…
師に付いて基礎をまずしっかりならうのが『守』の段階。
他の流派や達人の技を研究し自分の技に取り入れるようになるのが『破』の段階。
そしてやがては師を離れ自分のオリジナルの居合を創りあげるのが『離』の段階。
これは画業にもあてはまる。
基礎修練はもっとも大切なこと。
習得した基礎は崩さずにその上に表現を積み上げ切磋琢磨していく。
それがやがては自分だけの表現に結実していく。
そして天狗になるプロセスも、混乱したあげくに自滅していくプロセスも画業においてもよくあることなのだ。
師に付くということは伝授していただけることに感謝し、現状のありのままの自分を委ね無心(我欲無し)で信じて付いていく。(心酔することも大事)
いちいち疑問をはさんだり自分の狭い了見で師の言動を一刀両断にしていては学べるものも学べず仕舞いに成ってしまうということ。
へなちょこがいっちょまえ気分になってしまうという意味で天狗になったり、自滅したりで付け焼き刃な状態がいちばん不安定で危ないのだということなのだろう。
修業の道程にはそういう段階があるのだと理解できる。