Y師匠のおハナシから。
上達のプロセスにおいては修業の進み具合によって「その段階でなら今はまだそれで良し」ということがある。
が、まだまだ先があるということを忘れてはいけない。
その段階の割には良くできているという意味での『良し』なのだ。
それを、『良し』といってもらったからといって、自分はできるようになったと勘違いしてはいけない。
前に指導していただいたところを一週間稽古してできるようになって次の稽古に臨んだ時に、師匠が良しと言われた。そしてこんどはこうしてみろと言われた。
前回と別のことを言うと。次にはまた別のことを言われると。
それで不満が噴出し、毎回違うことを言われるので混乱すると文句を言うのは筋違いであって修業が進んだ頃合いを見て次の段階の修練がまた始まるということの繰り返しがあるのだということを理解すること。
それが分からない人は一度良しといわれただけでできるようになったと天狗になったり、毎回違うことを言われることで混乱し辞めてしまうこともあるのだという。
修業の進み具合で語られる『守・破・離』のハナシと絡めると…
師に付いて基礎をまずしっかりならうのが『守』の段階。
他の流派や達人の技を研究し自分の技に取り入れるようになるのが『破』の段階。
そしてやがては師を離れ自分のオリジナルの居合を創りあげるのが『離』の段階。
これは画業にもあてはまる。
基礎修練はもっとも大切なこと。
習得した基礎は崩さずにその上に表現を積み上げ切磋琢磨していく。
それがやがては自分だけの表現に結実していく。
そして天狗になるプロセスも、混乱したあげくに自滅していくプロセスも画業においてもよくあることなのだ。
師に付くということは伝授していただけることに感謝し、現状のありのままの自分を委ね無心(我欲無し)で信じて付いていく。(心酔することも大事)
いちいち疑問をはさんだり自分の狭い了見で師の言動を一刀両断にしていては学べるものも学べず仕舞いに成ってしまうということ。
へなちょこがいっちょまえ気分になってしまうという意味で天狗になったり、自滅したりで付け焼き刃な状態がいちばん不安定で危ないのだということなのだろう。
修業の道程にはそういう段階があるのだと理解できる。