昇段前の段位で申し込みした大会だったので二段の部での参加でした。
自分が参加するトーナメントでは最初の第一試合からの出場だった。
同門の兄弟子I氏の大人なジョークにこころをほぐしてもらえたが、試合直前というのはかなり緊張する。
試合会場でいざ本番という時に同じ会場の直前まで行なわれていた小学生の居合演武が目に入る。
数々の居合の大会で見かける評判の小学生の兄と妹の演武だった。
のびのびとした、それでいて所作の美しい大人顔負けの演武が目の前で展開されていた。
「なんていいんだろう!」
思わず、この少年少女の凛とした演武に感動している自分がいた。
すがすがしい良いモノを見せてもらった気分。
彼らの演武後、すぐに自分の演武がはじまった。
おかげでなにかがふっきれて自分の演武に入ることができた。
三回戦まで勝ち進み、ベスト8までいきましたが準々決勝で敗退。
準々決勝で自分に勝った人が優勝でした。
昨年の同じ大会で二回戦で対戦し自分に勝った人が三段の部で演武しているのを見た。
昨年より格段に良い演武をされていた。
こういうことが刺激というか励みになるのだなと思う。
次回は11月の関東甲信越大会、こんどは昇段したので三段での参加になる。
次も頑張ろうという気持ちになる。
八段藩士F先生が閉会の辞でおっしゃっていたことば。
「刀との対話が無い演武が目立つ。刀は道具であると共に自分のこころを映す鏡、よく刀と対話してほしい。そして刀のこころを理解してほしい。
どこがモノウチで反りは何度の角度があるか、刀は竹刀を使う剣道のように叩いても切れない。モノウチが切る部位に当たると同時に引き切らねばならない。
仮想敵のどの部位を切っているのかしっかり想定しながら刀は遣われねばならない。そのためには手の内をしっかり訓練しなければならない。これを意識しながら日頃の修練を行なってほしい。」
道具としても鏡としても遣えるものも遣えてないし対話がまだまだ足りてないんだなあ。
気剣体の一致とは自分の気構え(精神)と実力(技)とそのこころを体現した身体ですっくとその場に立つ姿だ。
決して実力以上に見せようとする虚飾のスガタではなく、心の揺れなくふだんのまま、誠実にバランスのとれた自分で魅せるという表現と自分は受け止めてみた。
他と比べて見劣りする部分に振り回されず、今の自分のままにバランスをとってみる。
自分の中心はどこか知っている、それがダメならダメなりの強みとなる。
そしてそのことが潔ぎのよい魅力となる。
修業の深さが見て取れるという言葉の意味をかみしめているところだ。